Antonio Alonso PROFILE
Antonio Alonso ANTONIO ALONSO アントニオ・アロンソ
舞踊家・振付家マドリードに生まれる。

7歳でビクトリア・ピテルにつきスペイン舞踊を学び始め、最も優れた生徒として抜きんでる。 その後数年間は、メルセデス・レオン、アンヘル・ペリセ、ビクトリア・エウヘニア、ホセ・グラネ―ロ、 アルベルト・ロルカ、ホセ・アントニオ、ペドロ・アソリン、アウロラ・ポンス、ファナ・タフ、 マリア・マグダレーナ、等に師事し、舞踊家としての芸術教育を修める。

13歳にしてグラン・アントニオの率いる「マドリッド・バレエ」に参加を呼びかけられ、プロとしてのキャリアを踏み出すこととなる。
15歳でラファエル・コルドバ・スペイン舞踊団にソリストとして契約、1年後にはプリモに昇進した。

17歳でアルベルト・ロルカ率いる、後のスペイン国立フェスティバルの前身である、アントロヒア・バレエに加わる。
スペイン国立バレエが創設される際には、当時の芸術監督アントニオ・ガデスによってメンバーとして契約されることとなる。 1年後には同じ監督の下、ソリストに引き上げられ、その後わずか半年でプリモに昇進し、1986年に志願休職するまでプリモに在籍した。 この期間に踊った主役の中でも「ハソン」における役作りは特筆に値するものであり、また、マノロ・サンルーカルの音楽、 ホセ・グラネーロ振付けの「メデア」においてはマヌエラ・バルガスと共に、世界中の観客と劇評から絶賛を浴びた。

1988年には、スサナ・ロブレード舞踊団のために「ドン・ファン・フラメンコ」をふりつける。ファビア・ピュイセルベールが舞台美術を担当したこの作品では、 自ら主役も踊り、1989年にかけて、他の活動と併せて、ヨーロッパ各地で公演を行う。この間、他のカンパニーにも協力して活動を行い、 1988年にはコルドバの画家フリオ・ロメロ・デトーレスの一生を描いた作品「クアトロ・エスキーナス」で、サラ・レサーナと共に初演を飾った。 フランコ・セフィレリは、彼にオペラ「カルメン」を振付けし、踊ることを依頼、ウィーン国立歌劇上でテトル・プラシド・ドミンゴと共演することとなった。

1989年、小松原舞踊団の招きで招待エトワールとして日本公演に出演、東京と大阪のサマーフェスティバルで大成功を収める。専門評から年間最優秀外国人舞踊家に選ばれる。 同年、国立スペインバレエからもトリニダーセビジャーノと共に特別出演に招かれ、ホセ・ニエト音楽ホセ・アントニオ振付けによる、「ドン・ファン・テノーリオ」の世界初演で、 ドン・ルイス・メヒア役を踊ることとなる。

こうした数々の活動と併せて、1986年には自身の舞踊団を創設し自らの芸術監督と振付けによる、クラシコ・エスパニョールとフラメンコの演目で、 イタリア・オランダ・スイス・ベルギー・ルクセンブルク・オーストリア・ドイツ等の国々を公演して廻り、テレビ番組にも出演した。 また、様々な舞踊団や音楽作品の為の振付けをてがけたが、中でも1990年、マリア・ロサ舞踊団のために、クリスティーナ・エルナンドと協力して創ったホアキン・ロドリーゴの 「アランフェス協奏曲」は素晴らしい作品である。

1991年、マドリードの国立コンサートホールで行われた、ロイヤル・ガラの為に、スペインのサルスエラからの様々な作品を振付け、ロイヤルファミリーの御臨席に於て、 ガルシア・アセンシオ指揮、プラシド・ドミンゴの指揮と歌で、踊りを披露した。
1991年、外国公演の為の招待エトワール、及びプリンシパル・ダンサーとして、再び国立スペインバレエから契約される。

国立スペインバレエのプロデュースした作品においては、常に重要な主役として次々と初演を務めた。アントニオ振付けの「三角帽子」、「恋は魔術師」、「サラサーテのサパテアード」、 「浮気な人妻」、ラファエル・アギラールの「女の肖像」、マリエンマの「パードレ・ソレールのソナタ」、「ソレールのファンダンゴ」、アンヘル・ペリセの「スカルラッティのソナタ」、 ホセ・グラネーロの「メデア」、フェリペ・サンチェスの「ロンデーニャとサパテアード」、ファン・キンテーロの「ファルーカ」等、多くの作品の主役を初演した。

スペイン国立バレエで多くの素晴らしい作品を初演した後も、様々な主要なアーティスト達と共演し、次の様な優れた作品を初演して成功を収めている。 すなわち、1992年、セビーリャ万博の為に制作された「ラ・ペテネーラ」では、女優ラウラ・デル・ソル(カルロス・サウラの「カルメン」を演じた)と共演し、 1994年には、マリオ・マヤの振り付けた作品「フラメンコ・レクイエム」でアンダルシア舞踊団に客演、この作品をスペイン各地で公演し観客の熱狂的な評価を博し、 マドリードでは40日間のロングランを達成した。

そして1996年にはマドリード市フェスティバルで「ソロス」を初演、その後ニューヨーク、ボストンなどアメリカ各地で公演を行った。
舞踊家として優れた才能を発揮すると同時に、スペインや他の国々から師範としても求められることとなり1997年には、フラメンコに熱烈な関心をよせる国である日本の、 東京・六本木に自身のフラメンコを含むスペイン舞踊のスタジオを開設する。彼の教えによって、生徒はスペイン舞踊と、スペイン文化の何たるかを的確に学んでおり、 また反対に、日本文化は彼に何らかの影響を与え、それが彼の創作活動に反映されている。

教師としての仕事と併行して、様々なインパクトのある作品を制作し続ける。1998年3月、東京・有楽町マリオンで「アルマ」を公演、同じ月、 在日スペイン大使館主催のスペイン・カルチャー・ウィークで催された舞台に出演、また8月には、アメリカ・カリフォルニア州のスタンフォード大学に招かれ、 フラメンコの講習を行った。そして9月、東京・ヤクルトホールにて「センティードス・フラメンコス」を初演。

1999年には様々なテレビ番組にも出演したが、中でも日本テレビの「生ダラ」や「ダイエット・コカコーラ」のコマーシャルの振付けがある。同様にソプラノ歌手塩田美奈子の為、 オペラ「カルメン」のいくつもの場面を振り付けた。
2001年、NHKのテレビ番組に協力する機会を何度か得たが、中でも1月の「ニューイヤー・オペラ・コンサート」、2月の「いっきにパラダイス」でのバイオリニスト川井郁子との共演、 10月にはNHK・教育テレビ「スペイン語講座」の中で4回にわたりフラメンコを指導している。

この年の6月には、プロ舞踊家デビュー30周年を記念して東京・新宿文化センターにて、フラメンコ・フュージョンというべき作品「アルマ・デ・オンブレス」を発表する。 この作品において、彼は共演者と共に、目にみえる、そして見えないスペインと日本という2つの文化の境界線をそのストーリーの間中、常に舞台上に描き出していくのだが、 特に強調しなければならないのは、この作品の制作過程で、彼が「居合」すなわち日本刀の真剣を操る武道をマスターしていたことで、これは非常に至難の技であるということだ。

2002年3月、テレビ朝日のためにオペラ「カルメン」の新しい要約バージョンを制作、塩田美奈子(ソプラノ)と新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した。 また同月、サントリーホールにて現田茂夫指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、塩田美奈子とオペラ「カルメン」を共演した。この作品は日本において、 優れた振付けのスペイン舞踊とオーケストラの生伴奏によるオペラをあわせた、初めての試みであり、観客や劇場評から最高の評価をえることとなった。

2003年2月には同作品を岡山シンフォニーホールにて岡山フィルハーモニック管弦楽団と共演。5月、札幌メディアパーク「スピカ」にて “スピカフラメンコフェスティバル2003”に特別ゲストとして出演する等、日本各地で大きな公演を行い反響を呼んでいる。同年7月、 東京イイノホールにて映画「サロメ」(監督:カルロス・サウラ)の特別試写会にスペシャルゲストとして出演。また、その様に輝かしい舞台に出演する一方で、 11月に行われた骨髄バンクチャリティーコンサートにボランティアで出演する等社会問題にも常に関心を持ち、精力的に貢献している。同年は振付家としても偉才を発揮しており、 バトントワリングの日本人選手がその指導の下で世界大会ジュニア部門2位の成績を収める。

2004年2月には渋谷東急文化村・オーチャードホールにて舞台「サロメ」に特別招聘ゲストとして出演し、円熟した踊りで観客を魅了した。 同年6月、府中の森芸術劇場・ウィーンホールではスペインの大衆芸術であるサルスエラを題材にした「サルスエラ・フェスティバル」において芸術監督として参加する。

2005年7月には川口国際文化センター・リリアホールにて「川口国際文化交流フェスティバル2005」に出演、アントニオ・アロンソと彼の率いる舞踊団で ソプラノ・塩田美奈子とヴァイオリニスト・川井郁子をゲストに迎え公演を収める。

2006年2月、新宿文化センターにてアントニオ・アロンソの脚本・演出・出演による作品「ベルナルダ アルバの家」(原作フェデリコ・ガルシア・ロルカ)を世界初演し大成功を収める。 またそれと同時に後進の指導にあたるなど多方面にて活躍している。

2007年10月、ロシアのサンクトペテルブルグにて舞踊団を指導。

2008年10月、ユーロアメリカ国際大学より名誉学位(スペインクラシック舞踊)を授与される。11月には、オペラ歌手ホセ・カレーラスの50周年を記念し、 東京国立博物館にて日本舞踊家の飛鳥左近と共演。12月には、ロシアのサンクトペテルブルグ・ミュージックホールにて「カルメン・フォーエバー」の主役ホセ役を務める。

2012年6月、新宿のタブラオ「エル・フラメンコ」、名古屋の「ちくさホール」にて自らのバレエ団を率いて公演「VARIACIONES」を発表。

2014年5月にドイツ文化センター、6月にセルバンテス文化センターよりイベント出演の依頼を受け、バレエ団によるフラメンコ及びクラシコエスパニョールを演出。 同年、日西修好400周年を記念し、サントリーホールにて行われたイベント「VIVA ESPANA」や大分県立美術館の開館記念公演にスペイン舞踊家として招かれる。

2015年7月、東京文化会館にて行われた「二期会研究会駅伝コンサート」ではスペイン音楽研究会のため振り付けを提供。

2016年2月、サントリーホールでの公演「スペイン音楽の仲間たち」にゲスト出演。 8月、よみうり大手町ホールにて、エンリケ・グラナドス没後100年を記念した公演「洗練のロマンティコ!」では舞踊家としてのみならず、振付家としても高い評価を得た。 同年12月、かねてからのプロジェクト「東京フラメンコバレエ」の披露公演をセルバンテス文化センターにて行うも、直後に病に見舞われる。

約1年間の闘病生活を経た後、2018年3月、草月ホールにて「東京フラメンコバレエ」の初回公演を見事成功させた。